AWS Startup ブログ
教育機関向け生成AI SaaS「スタディポケット」と取り組んだ ML Enablement Workshop ― Working Backwards で生まれた新機能コンセプト
1. はじめに
生成AIとAIコーディングツールの普及により、開発速度はもはやスタートアップだけの特権ではなくなりました。誰もが高速にプロダクトを構築できる時代において、スタートアップが競争優位を築くために本当に重要なのは、顧客起点で課題を定義し、仮説検証のサイクルを回して顧客から学ぶ速度を上げることです。AWS では、こうしたプロセスを支援するために ML Enablement Workshop を提供し、Working Backwards の手法を通じて顧客課題の再定義とプロダクト仮説の検証を加速しています。
スタディポケット株式会社は、学校・教育機関向けの生成AIサービスを提供するスタートアップです。生徒向けの学習支援サービス「スタディポケット for STUDENT」と、教員向けの校務支援サービス「スタディポケット for TEACHER」を全国の小・中・高校・特別支援学校に展開し、文部科学省のガイドラインに準拠した安心・安全な生成AI活用環境を提供しています。AIが直接的な答えを教えるのではなく問いを返すことで生徒自身の思考を促す「探究学習モード」をはじめ、教育現場に特化した機能を備えています。
2025年12月から2026年1月にかけて、同社はAWSが提供する ML Enablement Workshop(以下 MLEW)に計2日間参加しました。本記事では、ワークショップの内容と、そこから生まれた新機能コンセプトについてご紹介します。
左から:AWS スタートアップ アカウントマネージャー 中川裕基、執行役員CTO 香西 俊幸 氏、代表取締役CPO 鶴田 浩之 氏、AWS スタートアップ ソリューションアーキテクト 大越雄太
2. Working Backwards と生成AIで、教育AIの顧客課題を再定義
ML Enablement Workshop とは
ML Enablement Workshop は、AWS が提供するワークショップ・プログラムです。AIやMLをプロダクトの成長につなげられるチームを作ることをゴールとし、Amazon で実践されている Working Backwards のプロセスを、生成AIを活用しながら体験します。Working Backwardsとは顧客が得る体験からさかのぼってプロダクトを定義するアプローチで、プレスリリースの形式でプロダクトの価値を先に言語化し、そこから開発を始めるという特徴を持ちます。
ワークショップは大きく3つのフェーズで構成されます。
- Day 0(事前準備):対象とする顧客像の明確化と、活用できる技術・ソリューションの棚卸しを事前課題として実施
- Day 1(実践編):Working Backwards の5つのステップ(Listen → Define → Invent → Refine → Test/Iterate)を一巡し、顧客課題の定義から PR/FAQ・モックアプリの作成までを1日で体験
- Day 2(改善編):Day 1 後に実施したユーザーインタビューの結果をもとに Working Backwards を再実施し、より顧客の実態に即したコンセプトとマイルストーンを策定
スタディポケット社の参加体制
スタディポケット社からは、プロダクトマネージャー1名とエンジニア3名の計4名が参加しました。チーム全員が日常的にAIコーディングツール(Claude Code、Cursor)を使用しており、ワークショップ中も4人がそれぞれの環境でコーディングエージェントを動かしながら並列に検討を進めるという、まさにAIネイティブな開発スタイルで取り組みました。
AWSスタートアップチームとの2日間ワークショップ(1日目)
Working Backwards の5つのフェーズ
ワークショップでは、生成AIと対話しながら以下の5つのフェーズを順に進めていきます。各フェーズで用意されたプロンプトを生成AIに与え、その出力をチームの知見で修正・洗練していくことで、仮説の質を高めていきます。
Listen(傾聴) では、対象顧客のカスタマージャーニーを時系列で整理します。顧客が目的を達成するまでに取った行動、要したリソース(時間・コスト)、その時の感情の3点を定量的に表にまとめます。スタディポケット社の場合は、中学生がAIチャットを使って学習する場面を具体的に描きました。
Define(定義) では、Listen で洗い出した顧客行動の一つ一つに対し、常識を疑う2種類の問いを立てます。
- 「なぜ○○せずに□□ができないのか?」
- 「なぜ○○と○○は同時にできないのか?」
立てた問いを、解決した場合に削減・獲得できるリソースの大きさと、顧客がその問いに直面する頻度でランキングし、Top 3 に絞り込みます。このフェーズこそが、後述するブレークスルーを生んだ最重要ステップでした。
Invent(発明) では、事前に整理したソリューション一覧(solutions.md)を組み合わせ、Define で絞り込んだ問いに応える解決策を発明します。各ソリューションの実装難易度を1・3・5・10の4段階で評価し、インパクトと難易度のバランスで最適な発明を選択します。
Refine(洗練) では、選択した発明について Amazon 流の PR/FAQ(プレスリリース/FAQ)を作成します。PR/FAQ は、まだ存在しないプロダクトについて、あたかもリリース日に発表するかのようにプレスリリースを書くことで、顧客価値を明確に言語化する手法です。顧客向けFAQと社内向けFAQの両方を作成することで、ビジネスとしての実現可能性も同時に検討します。さらに、PR/FAQ の内容をもとに生成AIでモックアプリケーションを自動構築し、ユーザーテストに使用できる形にしました。
Test/Iterate(検証) では、課題解決の達成と行動変化の達成という2つの観点で評価基準を設定し、マイルストーンを定義します。Day 1 では社内での意思決定に使うマイルストーンを、Day 2 ではファン獲得や投資判断を含む社外向けマイルストーンを追加しました。
Day 1 と Day 2 の間 ― ユーザーインタビュー
Day 1 と Day 2 の間には約1ヶ月の期間が設けられ、スタディポケット社のチームはこの間に実際の教員、教育委員会担当者へのユーザーインタビューを実施しました。インタビューでは以下のような生の声が集まりました。
- 生成AIの応答が難しすぎる、未習得の概念が出現して学習が中断するという中学生特有の課題
- メモリ機能(生徒の履歴や苦手の把握)への高い期待がある一方、「AIモデルの学習に使われてはいないか」という不安の声があがる懸念
- 教員自身もAIチャットの具体的な活用場面をイメージしきれていないという現実
- 汎用AIとの非公式な併用が現場で起きている実態
これらのリアルなフィードバックが、Day 2 の改善編での大きな転換点となりました。
スタディポケット社エンジニアによる Day 1 参加レポートもぜひご覧ください。
AWS ML Enablement Workshop 参加レポート|学校向け生成AI SaaSをエンジニア視点で考える
3. Working Backwards とクリティカルシンキング ― 「みまもりプロンプト」が生まれるまで
Define フェーズでの転機
Day 1 の時点では、「科目別にチューニングされたAIエージェント」や「エージェンティックなチャット体験」など、技術起点のソリューションが中心でした。しかし、ユーザーインタビューを経てチームが気づいたのは、技術的に高度な機能を追加しても、それだけでは教員や生徒の体験を劇的に変えるには至らないということでした。
転機は、Define フェーズの問いの一つから生まれました。
「なぜ、生徒自身が情報を開示しないとAIがパーソナライズされないのか?」
この問いに対して、参加者の一人がこう指摘しました。
「教育現場という特殊な環境では、生徒のことを一番よく知っているのは担任の先生だ。先生は一人ひとりの生徒の特性、つまずきやすいポイント、学習スタイルを把握している。なぜその知見をAIに渡せないのか?」
これは、「AIのパーソナライズは利用者本人がチャット履歴やメモリを通じて育てるもの」という一般的な前提を覆す発想でした。消費者向けのAIサービスでは利用者自身がカスタマイズするのが常識ですが、学校という環境では、指導者が生徒一人ひとりを深く理解しているという独自の構造があります。
「教師の見取りを反映するプロンプト」というアイディア
この気づきから生まれたのが、教師が生徒のAIチャットのシステムプロンプトを設定できるというコンセプトです。チーム内では「教師プロンプト」「カスタムインストラクション」、そして最終的には「みまもりプロンプト」という名称で呼ばれるようになりました。
具体的なユースケースは明快です。
- 外国籍で日本語に不慣れな生徒に対しては、「かなりわかりやすい”優しい日本語”で回答してください」と先生が設定する
- 乗り物が好きな生徒に対しては、「説明の際に乗り物の例えを使ってください」と設定することで興味を引き出す
- 自分の考えを言語化するのが苦手な生徒に対しては、「段階的に質問を重ねて、本人の考えを引き出すように接してください」と設定する
- 特別支援学級では、一人ひとりの個別指導計画に基づいた細やかな設定を行う
- 自らどんどん進んでいく生徒には「応用問題を追加提案するなど本人の可能性をさらに引き出すようにしてください」と設定する
- 特定の難関校を志望する生徒に、目標としている学校のアドミッションポリシーのサマリを記載しておく
技術的な実装はシンプルです。ユーザーテーブルに「教師によるカスタムプロンプト」のカラムを追加し、その生徒がチャットを利用する際にシステムプロンプトとして差し込むだけです。しかし、このシンプルな仕組みが教育現場に与えるインパクトは大きいと参加者全員が確信しました。
AWSスタートアップチームとの2日間ワークショップ(2日目)
なぜ Working Backwards でこの発見ができたのか
この「みまもりプロンプト」のコンセプトが生まれた背景には、Working Backwards のプロセスが持つ3つの構造的な強みがありました。
1. 問いを立てることで暗黙の前提を可視化する
Define フェーズの「なぜ○○せずに□□ができないのか?」という問いのフレームワークは、普段当たり前だと思っている前提を一つずつ検証する仕組みです。「パーソナライズにはユーザー本人の情報開示が必要」という前提は、消費者向けサービスでは自明ですが、教育という文脈では必ずしもそうではありませんでした。日常の開発では気づきにくいこうした前提を、構造的に問い直せた点が重要でした。
2. 生成AIが「偏りのない壁打ち相手」になる
ワークショップでは生成AIに各フェーズのプロンプトを与え、出力をチームの知見で修正していくプロセスを取ります。生成AIは教育業界の暗黙知を持たないからこそ、業界の常識にとらわれない問いやアイデアを提示します。スタディポケット社の鶴田氏は「言語化お化け」と表現していましたが、チームが漠然と感じていた課題意識をAIが整理・構造化し、そこに人間がドメイン知識で修正を加えることで、一人では辿り着けない発想に至ることができました。
3. PR/FAQ が「本当に価値があるか」のリトマス試験紙になる
Refine フェーズでプレスリリースの形式に落とし込む作業は、アイデアの本質を問い直す行為でもあります。「このプレスリリースを読んだ教員が、使ってみたいと思うか?」という視点で繰り返し推敲することで、技術者視点の機能要件から顧客視点の価値提案へとシフトしていきました。
4. 「みまもりプロンプト」のリリースと今後の展望
ワークショップを通じて生まれた「みまもりプロンプト」は、担任教師が生徒一人ひとりのAI対話に、個別の配慮や指針を付与できる機能です。教師が日々行っている「みとり(見取り)」をAI技術で支援するという、スタディポケット独自のコンセプトとして形になりました。
みとり(見取り)は、子ども一人ひとりの内面や成長を観察し、適切な指導へ生かす営みで、先生が設定した配慮や指針は、生徒には開示されない形で対話型AIの応答に反映されます。教室を離れた学習の場でも、先生の見取りに基づいた学びが続く仕組みです。
3つの設計原則
コンセプトを具体化するにあたり、チームは教育現場ならではの3つの設計原則を定めました。
1. 先生だけが設定できる
みまもりプロンプトの作成・変更・削除は教師のみが行えます。汎用AIサービスにおけるカスタムインストラクションのように、利用者(児童生徒)自身が設定を操作することはできません。「みとり」の主体は常に教師であるという教育の原則を、機能設計に反映しています。
2. 生徒には見えない
設定内容は生徒のインターフェース上には表示されません。AIの応答が自然に配慮された形になるため、生徒は意識することなく最適化された学習体験を受け取ることができます。
3. 一人ひとりの学びに宿る
みまもりプロンプトは生徒アカウントに紐づいて保存され、どのデバイスからアクセスしても一貫して反映されます。教室を離れた自宅学習の場においても、先生の見守りが途切れることなく学びを支え続けます。
2026年度よりリリース
スタディポケット社は2026年3月、「みまもりプロンプト」を2026年度当初にリリースすることを正式に発表しました。ワークショップで生まれたコンセプトが、わずか数ヶ月でプロダクトとして世に出るスピード感は、スタートアップならではの強みです。
プレスリリースの中で、同社 CTO 香西俊幸氏は次のように述べています。
AWSのML Enablement Workshopに開発チームで参加し、Working Backwardsの手法を実践したことが、この機能の原点です。普段の開発では技術起点で考えがちですが、ワークショップではまず顧客の行動を丁寧に観察し、当たり前だと思っていた前提を一つずつ問い直していきます。技術的には決して複雑な実装ではありませんが、顧客課題を正しく定義できたからこそ辿り着けたアイデアだと感じています。
また、同社 CPO 鶴田浩之氏は「みまもりプロンプト」の本質をこう語っています。
教育現場からは「プロンプトを上手に書ける生徒と、そうでない生徒との間で、AIの利活用に差が生まれ始めている」という声が寄せられていました。「みまもりプロンプト」は、ふだんの授業で一人ひとりを見取っている教員が、その延長としてAIへの配慮を書き込むことで、生徒のプロンプト力に依存しない学習体験を下支えする仕組みです。
プレスリリース全文はこちらからご覧いただけます。
5. ワークショップを終えて
Day 1 の実践編から Day 2 の改善編にかけて、参加者の各プロセスへの自信度が向上したことは特筆すべき点です。特に「顧客は誰か(Listen)」の自信度は全員が最高評価となり、ユーザーインタビューを経た Working Backwards の反復が顧客理解を深める効果を裏付けています。
本ワークショップの成果は、単に一つの新機能が生まれたことにとどまりません。スタディポケット社のチームが得たのは、顧客課題を構造的に定義し、仮説を検証するための再現可能なプロセスです。
生成 AI と AI コーディングツールの普及により、「何を作るか」よりも「何を作るべきか」の重要性がこれまで以上に高まっています。技術的な実装力が民主化された今、スタートアップの競争優位は、顧客を深く理解し、正しい課題を定義できるかどうかにかかっています。Working Backwards は、その問いに向き合うための実践的なフレームワークを提供します。
AWS では、ML Enablement Workshop を通じて、AI や ML をプロダクトの成長につなげたいスタートアップの支援を引き続き行っています。
ML Enablement Workshop の詳細はこちらからご覧いただけます。